K21について

 名前はそのまま、“ケーニジュウイチ”と読む。メガネ・ひげ・帽子の3点セットがトレードマークのシンガーサウンドクリエイター。

 自身の音楽活動を中心としながら、様々なアーティストの楽曲のアレンジやレコーディング、ライヴPAやイベント音響など、多岐にわたる活動を繰り広げる。

 また、趣味である写真やグラフィックデザインにおけるスタイリッシュなセンスにも定評があり、製作に関わったアーティストの写真撮影やジャケットデザイン、イベントフライヤー作成などの依頼を受けることもある。

 とにかく、何かを“作る(創る)・生み出す”ことに無上の喜びを覚える、根っからのクリエイター気質。しかも何事も突き詰めなければ気が済まない極度の凝り性。肩こりもひどい。

 ちなみにこのサイトも、テキストエディタによるHTML/CSS手書きで作成している。

バイオグラフィー

幼い頃のK21 1978年4月14日、京都市に生まれる。以来、微妙に位置を変えながらも、ずっと北山在住。

 小学校入学前から、模型店に連れて行ってもらい、モーターとギアボックス、電池ケースにゴムタイヤと木の板を買ってもらい、半田ごて等の工具を使いこなしてそれを車に組み上げ、近所の公園で走らせる…などという、およそ子どもらしからぬ遊びをするおかしな幼児だった。
 そんなK21の母は、若い頃にはピアニストを目指し、夢は自分の子どもとの連弾(1台のピアノを2人で一緒に演奏すること)だなんて人で、その夢を実現すべく(?)しきりに「ピアノ習ってみない?」と幼いK21に誘いをかけていたのだが、自作の車の走行試験とレゴブロックでの宇宙船建造に毎日いそがしいリトルボーイK21には、そんな気は全くなかった。
 ところがある日、そんなK21の今後の人生に多大な影響を及ぼすことになる事件が発生!通っていた保育園のお誕生日会だかクリスマス会だかで鍵盤ハーモニカの合奏をするにあたり、ピアノを習っている子は難しいパート、習っていない子は簡単なパート、という振り分け方をされてしまったのだ。ピアノを習ってなかったKちゃんは当然、簡単パートに。
 だが、試しに難しいほうのパートを弾いてみたら…ちゃんと弾けるやん!ボク、できる子やん!!なんで難しいほうを弾けるのに簡単なほうのパートなの!?くやしーっ!よしっ、難しいほうを弾かせてもらえるように今すぐピアノを習おう!!!
 …などと浅はかなことを考え、ついに母の勧誘にのってピアノを習い始めてしまった。しかし当然のことながらその思惑は外れ、演奏発表では簡単なほうのパートを弾かされた。が、なんやかや言いつつもその演奏会ではたいへん楽しく機嫌良く演奏し、ステージに立つ喜びを知る。


中2ピアノ発表会 そうして習い始めたクラシックピアノ、どういうわけかその道ではたいへん有名な先生に師事してしまっていたので、ついていくのに必死!母のスパルタ教育もあり、イヤでイヤで仕方ない時期もあったが、なんとか中学を卒業するまで続けた。母との連弾も実現した。
 この頃、多少なりとも身についた音楽的素養と鍵盤の演奏技術が、後に大きな財産となる。

 たしか中学2年生の頃、近所に住む、お互いにクラシックピアノを習っていた幼なじみ(そいつのほうがずっと上手かった)が、YAMAHA EOS B500という小室哲哉仕様のシンセを買って、それを見せ(びらかし)にうちへ持ってきた。ハードケース入りで20kgくらいあるのだが、我が家と彼の家は、がんばればそれもなんとか運べる距離だった。そして、当時彼がはまっていたバンドの曲を自分で打ち込んだものを聞かせてくれたのだが、それにK21はたいへんな衝撃を受け、是が非でも自分も打ち込みがしたくなり、そのままそのEOS B500を強引に借り受けた。買ったばかりの割にけっこうすんなり貸してくれた…ような気がするのは、やっぱ重たいしあいつも運ぶのに疲れてたんとちゃうかな、うん。以後そのB500は、2人の家を行ったり来たりでいつの間にやら共有物のようになってしまったあげく、現在もK21の家にある。

 初めてバンドを組んだのは中学3年生のとき。パートを決めるにあたり、自分にできるのはキーボードかヴォーカルだなと思ったのだが、生来とにかく出しゃばりで目立ちたがりなK21は、迷うことなくヴォーカルを選択!ベースは前出の幼なじみ。当時、2人ともピアノをばりばり弾いてたのに、何故か2人ともそのバンドでキーボードを弾こうとはしなかった。そのバンドは2〜3回スタジオに入っただけで自然消滅してしまったが、とにかくこれが生まれて初めてのバンド活動だった。

 高校入学と同時に軽音楽・フォークソング同好会に入り、改めてバンド活動を開始。バンドやるならギターも弾けた方がええやろ、みたいな軽いノリでエレキギターを弾き始める。秋からは音楽教室のヴォーカル課にも通い出した。

 相変わらずEOS B500はK21の家と幼なじみの家とを行ったり来たりだったが、今更ながらいつまでも他人のシンセを共用物扱いしているわけにもいかないので、高1の春休み(つまり高2になるとき)に、発売されたばかりのRoland XP-50を購入。B500だけでなく当時の他の主流なシンセと比べ圧倒的に音が良く、同時発音数が64もあり、重量も軽く、そのうえ値段も安いという、素晴らしいワークステーションシンセサイザーだった。そのXP-50は高校を卒業するときに後輩に譲り、あとから発売された上位機種のXP-80に買い換えた。XP-80は今も持っていて、ときどき使用している。


高校時代 高校2年生〜3年生の間は、ロックンロールとビートルズのコピーバンドを組み、初期ビートルズやチャック・ベリー、エディ・コクラン、ラリー・ウィリアムズなどの曲をやっていた。そのバンドのベースは、スムルースの小泉徹朗で、彼が付けたバンドの名は“ぴぐもんず”。
 このバンドで、高校の近くの中学校のPTA会長さんに呼ばれ、日曜日に中学校の体育館へライヴしに行ったときにもらった1万円(メンバー4人で分けたからひとり2,500円)が、人生初のいわゆる“ギャラ”だった。事前にはノーギャラと聞いていたので、いま思えばあれはPTA会長さんのポケットマネーだったのかもしれないのだが、当時はまだアルバイトもしたことがなかったので、正真正銘これが生まれて初めての“何かをすることによってもらえた報酬”だった。ちょっと感動した。

 部活のバンドではギターヴォーカルだが、自宅では相変わらず打ち込み大好き少年で、好きなバンドのスコアを買って来てはそれを片っ端から打ち込みで再現していった。この作業のおかげで、アレンジにおける様々な楽器の使い方が自然と身に付いていった。

 高3の時、ヴォーカルを習っていた音楽教室の発表会に、計7人だったか8人だったかの大所帯バンドで出場、イーグルスのホテルカリフォルニアを演奏して見事優勝!!…まぁ、優勝といってもその教室の中だけでのハナシではあったのだが、自信を付ける(≒調子に乗る)。
 音大に行こうかな…なんてことを考え出し、声楽を習い始める。が、ロック・ポップスとあまりにも異なる世界に、これは違う、と音大は諦める。しかしこの時、わずかながらも声楽すなわちオペラ的な歌唱法に触れられたことには、たいへん大きな意味があった。それまで意識することのなかったノドの筋肉の使い方や、すぐれた歌い手はすぐれた役者でもあること、などを学んだ。

 ちょうどこの頃、TASCAMの8trカセットMTR、488MKIIを中古で購入したことにより、できることの範囲が飛躍的に拡がった。シンセでの打ち込み、ギター演奏、そして歌で、ひとり多重録音をやり始める。これがもう、本当に夢のように楽しかった!この頃に作っていたものは、いま聞き返してみても我ながらよくやってたなぁと感心してしまうほど高いクオリティだった。
 また、当時のカセットMTRの中でも8trのものは高級機であったため、ミキサー部がしっかり作られており、ここでアナログミキサーのイロハを学べたことが、後に音響を仕事にすることへとつながっていく。

 こうして身につけた打ち込みや宅録の技術を使い、高校の卒業式では作曲家志望の友人と協力して、友人が作曲担当、K21がアレンジ&録音担当で、退場時のBGMを製作した。

 そして高校を卒業。俺は大学なんか行かねー!などとトチ狂ったことを言って音楽の専門学校へ入学…したはいいが、その学校がどうにも肌に合わず、1ヶ月足らずで退学してしまい、やはり大学へ行くことに。親に大迷惑をかける。


野外ステージ そして8ヶ月の突貫受験勉強でなんとか大学に滑り込んだ19歳、できてからまだ2年目の比較的新しい軽音サークルに入る。ここで出会った、音楽理論に明るく作曲が得意な先輩に影響を受け、ようやく自分のオリジナル曲を作り始める。
 また、このサークルでPA担当に志願。若いサークルだけにまだ知識や技術を持った人がおらず、四苦八苦しながら独学と我流で音響技術を身につけ、耳を鍛えていった。

 大学2年生の時、“K21”を名乗り始める。ちなみにこのとき21歳だったことと、K21という名称には全く関係がない。大学を卒業するまではほぼサークル内のみでの活動だったが、ソロでやってみたりサポートメンバーを入れてみたりと様々な演奏形態を試した結果、シーケンストラックをバックにSTEINBERGER GMを弾きながら歌う、という、ちょっとサイバーなソロユニット形態に行き着く。
 サークルの会長を務めた年の学園祭で、サポートメンバーと共に野外のメインステージに立ったことが、大学での音楽活動におけるハイライトとなった。

 大学卒業後は、俺は就職なんかしねー!と、またもやトチ狂ったことを言って音楽活動に励む。
 2002年12月、初の自主制作音源“KEEP YOUR ATTENTION”をリリース。

 2003年より、あるライヴハウスの音響とブッキングマネージャーを担当。2年ほどがんばり、そのハコの2号店を立ち上げたところで離脱。こんどはなじみの楽器屋の店員に誘われ、京都の老舗楽器店で働き出す。


K21  2006年、自主企画イベント“KEEP YOUR HIGH-TENSION!”を開催。初回の出演は、K21・差し口・RAdIO FLyER・LOVE LOVE LOVEの4組。以降、同イベントを不定期に開催。

 楽器販売の仕事は非常に楽しく、多くの知識や出会いを得たが、やはり音楽の現場・音楽そのものがある場所に居たいという思いが強まり、2年ほどで楽器店を退職。再びライヴハウスで働き出す。同時に、個人でも音響エンジニア・サウンドクリエイターとしての活動を始める。

 2008年4月13日、30歳の誕生日前日に、自身の音源としては約5年半ぶりの作品となる2nd CD “Spiral Soundscape”をリリース。同日、“KEEP YOUR HIGH-TENSION!3”を開催。

 その後も現在に至るまで、様々なミュージシャンの活動にアレンジャー・プレーヤー・エンジニアとして関わりつつ、あくまで自分自身もミュージシャンでありヴォーカリストである、という強い信念を持って、音楽とのより良い関わり合い方を模索しながらマイペースに音楽活動を継続している。

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